忠臣蔵の物語 浅野内匠頭「辞世の句」本当にあったの?

忠臣蔵の物語 浅野内匠頭「辞世の句」本当にあったの?

2008年12月14日14時9分 朝日

浅野内匠頭が切腹するまでの様子を克明に記した田村家文書=一関市博物館
 12月14日は「忠臣蔵」でおなじみの赤穂浪士が吉良邸討ち入りを決行した日。討ち入りのきっかけとなった江戸城「松の廊下事件」で切腹となった浅野内匠頭(たくみのかみ)の最期が、身柄を預かった旧一関藩の「田村家文書」に詳述されている。広く知られる内匠頭の辞世の句や家臣との「今生の暇乞(いとまごい)」の記録が、同文書には一切記述されていない。果たして辞世の句はあったのだろうか?

 1701(元禄14)年3月14日。江戸城「松の廊下」で吉良上野介(こうずけのすけ)を切り付ける刃傷事件を起こした浅野内匠頭は、幕府の命で、芝愛宕下(現東京都港区)にあった旧一関藩の藩主・田村家に預けられ、同藩が浅野切腹までの準備をとり仕切った。

 この浅野の切腹から討ち入りの経緯は「忠臣蔵」として一連の物語に仕立てられ、歌舞伎や映画、テレビドラマなどで繰り返し披露されてきた。一般的に、浅野は切腹前、訪ねてきた家臣と「主従今生の暇乞」を交わし、辞世の句として「風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」の歌を残したとされることが多い。

 ところが、岩手・一関市博物館が全1518点を保管している田村家文書を見ると、かなり経緯が異なるようだ。

 文書は、武家の礼式をつかさどる江戸幕府の要職を務めたこともある田村家藩主の動向を記した歴史書で、その「御家御年代記(おいえごねんだいき)」には、浅野が切腹するまでの一連の様子が15ページにわたり克明に記されている。

 それによると、浅野は刃傷事件があった当日の午後4時すぎ、一関藩邸内の座敷まで駕籠(かご)で連れてこられた。座敷の周囲を板で囲って釘(くぎ)打ちし、室内には便器を設置。一汁五菜の料理を出すと、浅野は湯漬けを2杯食べた。わずか1時間後の午後5時ごろ、幕府から切腹の命が下った。

 午後6時すぎ、藩邸内の庭に畳を15畳と毛氈(もうせん)を2枚敷き、周囲をびょうぶと段幕で囲って座敷同様にしつらえた場所で、浅野は切腹。遺体は浅野家の家臣2人が引き取りに来たという。文書はその光景を「なかなか目もあてられぬ様子どもにござ候(そうろう)」としている。

 田村家文書には、浅野が歌を詠んだ記録は存在せず、浅野と家臣が接触したのも切腹後と記されている。

 一関藩に関する著作がある一関市博物館の大島晃一副館長は「田村家文書は、浅野の刃傷事件後から切腹までの約6時間を、現実に即して細かく記した史料だ。忠臣蔵が今も広く親しまれるのは、史実に加え、増幅された物語があればこそだろう」と説明する。

 田村家の直系で、旧一関藩の16代目に当たる田村護顕(もりあき)さん(67)は「切腹を前に歌を詠んだり家臣を呼んだりするのは時間的に無理なことで、誤解されている部分もある。文書から真実が伝われば」と話している。(加勢健一)


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