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【歌舞伎】獨道中五十三驛 右近、15役早替わりに挑戦

【歌舞伎】獨道中五十三驛 右近、15役早替わりに挑戦

2009.2.28 08:06 産経

このニュースのトピックス:有名人の訃報
 市川猿之助門下の若手歌舞伎俳優を中心に3月、東京・東銀座の新橋演舞場で通し狂言「獨道中(ひとりたび)五十三驛(つぎ)」を上演する。鶴屋南北作の古典を昭和56年に師匠の猿之助が復活、自らの十八番に加えたもの。宙乗り、早替わり、本水を使う歌舞伎のスペクタクル満点の作品で、師匠譲りの15役早替わりに、一番弟子の市川右近が挑戦する。(生田誠)  

 「自分たちだけの一座が、この新橋演舞場で古典の歌舞伎をやれることがうれしい」と、右近はしみじみと語る。猿之助が病に倒れて以来、一門のまとめ役となり、スーパー歌舞伎を上演してきたが、古典の通しは、なかなか実現できなかった。

 弥次郎兵衛、喜多八の膝栗毛(ひざくりげ)さながら、京都から江戸への東海道中で、波瀾(はらん)万丈の出来事が起こる。お家乗っ取りの物語を軸にしながら、「弁天小僧」「お半長右衛門」といった名作歌舞伎の主人公が登場する「綯(な)い交ぜ」の手法を使って、娯楽性にあふれた物語を作りあげた。

 右近が演じるのは、お家騒動の元となる由留木(ゆるぎ)家嫡男の調之助(しらべのすけ)、敵役の江戸兵衛、岡崎の化け猫の3役に加えた、変化舞踊の12役。踊りでは、女形(お半)、僧侶(そうりょ)(土手の道哲)や船頭、雷といった姿に早替わりしていく。

 「舞台裏では、僕の周りにカツラを取る人、つける人、衣装を脱がせ、着せる人、鏡を見せる人など、8人くらいが待機しています。まるでF1のピットのようで、僕は身体を委ねるだけ」。早替わりに欠かせない、ダミー(替え玉)もいるようだ。

 そして今回、もう一つ新しい工夫(役)が加わる。序幕では役者姿となり、弥次喜多の女房役となる市川笑三郎、市川春猿とともに登場する。架空の劇場、演舞場「芝居前の場」に江戸の役者がいるところで、この芝居の幕が開ける。

 「早替わりの芝居でも、役者右近が前面に出ないと、この芝居は面白くならない。自分が楽しめるかどうかだと思います」。師匠の留守の間、他流試合で腕を磨いた役者魂が、大輪の花を開かせそうだ。

 3月4日から23日まで。問い合わせはTEL03・5565・6000。


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<幕の内外>芝居を見るルール 設定を知ることが大切

<幕の内外>芝居を見るルール 設定を知ることが大切

2009年2月28日

 歌舞伎の台詞(せりふ)は分かりにくい? 実はあまり聞き取れなくても大丈夫。

 それより大事なのは「設定の理解」。特に時代物では必須。劇場には、チラシや筋書きが置いてあり、演目のあら筋が書かれています。開演前にこれらに目を通しておく、わずかなひと手間で見方も変わるし、台詞も断然聞き取りやすくなります。

 ある意味、歌舞伎はスポーツにも似ています。どちらもちょっとしたルールがあり、観客もそれを知った上で、一体となって楽しむゲームだからです。サッカーで、シュートが決まると盛り上がるように、歌舞伎の演技にも「得点すべきツボ」があり、最低限のルール(設定)は事前に知っておく必要が。

 「義経千本桜」の四の切は、狐が源義経の家来・佐藤忠信に化けているという設定。本物の忠信と狐の忠信を、一人の役者が演じ分けるのが前半のツボ。

 芝居の面白さは「いかにその役らしく見えるか」に尽きます。本物の忠信が決めるべきシュートのひとつが、自分の偽者を見つけしだい縛ってやるぞと、刀の下げ緒をほどくところ。台詞もない、ちょっとした仕草(しぐさ)ですが、颯爽(さっそう)とした武士らしさがでる見せ場。

 設定を知っていれば演技に集中できますが、ここで筋書きなど読んでいると、シュートの瞬間を見逃すかも? 台詞より演技で理解できることは多いのです。たとえば「三人吉三(きちさ)」の女装の盗賊お嬢吉三の「月も朧(おぼろ)に白魚の~」の有名な台詞も、現代人には意味が聞き取りにくい。しかし、いかにもその人物らしく見えて台詞のリズムが心地よければシュートは成功です。 (イラストレーター・辻和子)

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心打つ優しい眼差し 中村又五郎さんを悼む

心打つ優しい眼差し 中村又五郎さんを悼む

2009年2月28日 東京

 二十一日、中村又五郎さんが九十四歳で亡くなった。

 <人間、どうすればこんなにも優しい眼差(まなざ)しを持てるのだろう>

 じかにお目にかかったときの印象だった。

 テレビで、池波正太郎原作「剣客商売」の主役、秋山小兵衛役が圧倒的だった。老人役なのに、時として全身からすさまじい鋭さを放った。

 しかし、ほとんどがわき役だった歌舞伎舞台では、目立たないようでいて滋味あふれる端正なたたずまいを見せていた。数年前、初めてお目にかかる機会を得て、それは芸にも通じる老翁の神髄に接した思いだった。

 東京都心の繁華街に近い住宅地。身長一メートル五三、体重三五キロの又五郎さんが小柄な体をソファに沈めると、そこには静謐(せいひつ)な空気がただよった。

 昭和四十五年の国立劇場歌舞伎俳優養成の開設以来、主任講師をつとめ、当時も月三回は出掛けていた。

 昭和・平成の歌舞伎を支えるわきの俳優を多数養成した功績の大きいことを特筆しておきたい。

 もう一度お会いしたいと思いつつ、いつか時間が過ぎ、国立劇場の方は、もう姿を見せなくなったと聞いた。

 どうしても、あの優しさにもう一度触れたいと思ったのは、殺伐とした社会の中で、こちらがあがいているせいだろうか。

 「だめですよう。何を話しても通じるかどうか。それでもいいんですか」と、同居の末娘さん。寒い時期に声を掛けてしまい、半年待って昨年初夏、お会いできた。「出ろっていわれれば、いまでも」と元気な声。娘さんは黙って笑顔で手を横に振った。

 「長い芸歴で、一番印象に残っている舞台は」という問いに、大正十二年の現代劇「新樹」が飛び出したのにはびっくり。記憶がしっかりしているというより、古い思い出が懐かしかったのか。 (富沢慶秀)

<歌舞伎>片岡孝太郎 『新皿屋舗月雨暈』で女形2役 松緑とコンビで初役チャレンジ

<歌舞伎>片岡孝太郎 『新皿屋舗月雨暈』で女形2役 松緑とコンビで初役チャレンジ

2009年2月28日 東京

 若手女形としてメキメキ腕をあげている片岡孝太郎が、東京・国立大劇場の三月花形歌舞伎公演の通し狂言「新皿(しんさら)屋舗(やしき)月雨暈(つきのあまがさ)」(5-27日)で、清純な娘・お蔦としっかりものの女房おはまの対照的な二役を演じる。通称「魚屋宗五郎」で知られるこの狂言で、お蔦役は、最近はあまり上演されない前半「お蔦殺し」の主役。後半「魚屋宗五郎」の主役・宗五郎を演じる尾上松緑とともに初役のフレッシュコンビだ。 (富沢慶秀)

 河竹黙阿弥が五代目尾上菊五郎から「酒乱の役で世話狂言を」と頼まれ、菊五郎の当たり役だった怪談物「播州皿屋舗」の設定を取り入れて書いた晩年の傑作。明治十六年、東京・市村座で初演。戦後、二世尾上松緑が磨き上げた菊五郎劇団の財産演目だ。

 「(片岡)仁左衛門家とは縁のない演目と思っていましたが、上演年表を見ると十代目、十四代目の名前もあり、驚くとともに、そんな舞台に出られるのがうれしい」と、現十五代目の長男・孝太郎。

 芝片門前で魚屋を営む宗五郎の妹お蔦は、旗本磯部主計之介の懇望で奉公に上がる。用人の岩上典蔵が横恋慕し、殿様の愛猫を捜しにきたお蔦に強引に迫る。冷たく拒絶されたため、お蔦の不義を言い立て家宝の茶わんを割った罪までかぶせてしまう。

 それにすっかり乗せられた主計之介が、お蔦を斬り殺して井戸に落とし、その亡霊まで現れる趣向。ここまでが前半。後に真相を聞かされた兄・宗五郎は、断酒の禁を破って磯部家に暴れ込む後半へとつながる。

 「自分がやるとは思ってもいなかったが(坂東)三津五郎兄さんのお蔦を見ているんです」

 平成元年、国立小劇場での舞台をしっかり覚えている。まだ八十助の時代、宗五郎と二役だったが、その後、通しで上演される機会は少なく、そのときのお蔦の印象が鮮明のようだ。

 「あらためて本で確かめると、魚屋の娘であるお蔦は、想像していた以上に庶民的な娘で、おはまの方は世話女房。菊五郎兄さんによく見てもらいながら、いい舞台にしたい」

 ほとんど女形ばかり。だが「立役へのあこがれはある」。五年前に初舞台を踏んだ長男の片岡千之助が、三月一日に九歳の誕生日。「立役が多い家の芸が、この父を飛び越して子どもに伝わりそう」と苦笑する。

 今回、初の試みとして、三月九、二十三、二十六日の公演終了後、孝太郎と松緑の主役二人による無料の「アフタートーク」がある。「化粧を落とした素顔で、思い付くままフランクにしゃべります」(孝太郎)

 公演は午前11時半開演。7、14、21日は午後4時半も。18日休館日。8千5百-千5百円。(電)0570・07・9900。

中村又五郎さん葬儀に500人参列

中村又五郎さん葬儀に500人参列

又五郎さんの棺を運ぶ歌舞伎俳優で親戚の坂東三津五郎(右)ら
Photo By スポニチ
 21日に老衰のため94歳で死去した人間国宝で歌舞伎俳優の中村又五郎(なかむら・またごろう、本名・中村幸雄=なかむら・ゆきお)さんの葬儀・告別式が27日、東京都港区の増上寺光摂殿で営まれた。尾上菊五郎(66)市川団十郎(62)ら約500人が参列。日本俳優協会会長で歌舞伎俳優の中村芝翫(80)が弔辞を読み「兄さんのぴりっとした姿は、私たちの目に焼き付いてます」と、80年以上にわたり歌舞伎俳優として活躍した名脇役を称えた。国立劇場の歌舞伎養成所でも、長年講師として活躍。門下生の歌舞伎俳優は70人以上で「全くの素人を育てるという難事業でも見事な成果をあげられましたね」と遺影に語りかけた。

[ 2009年02月28日 ]

中村又五郎さん告別式に500人

中村又五郎さん告別式に500人

 21日に老衰のため94歳で亡くなった人間国宝の歌舞伎俳優・中村又五郎(本名・中村幸雄)さんの葬儀・告別式が27日、東京・芝公園の増上寺光摂殿で営まれた。

 歌舞伎界最年長の名優とのお別れに、尾上菊五郎(66)、尾上菊之助(31)親子や市川團十郎(62)ら500人が参列。弔辞を読んだ中村芝翫(80)は「芸は正当派のきっちりと磨き上げられたものでした。幹部俳優のほとんどが兄さんに指導を受けました。いつも温かく、紳士的で、芸に厳しく、ぴりっとした姿は目に焼き付いています」。納棺師によって遺体が納められた棺は、親戚にあたる坂東三津五郎(53)らの手によって出棺。80年以上の功績をしのぶように、しめやかに見送られた。

(2009年2月27日15時23分 スポーツ報知)

幸四郎ら1000人が涙…中村又五郎さん通夜

幸四郎ら1000人が涙…中村又五郎さん通夜

花に囲まれた故・中村又五郎さんの遺影が飾られた祭壇 21日に老衰のために94歳で亡くなった人間国宝の歌舞伎俳優・中村又五郎(本名・中村幸雄)さんの通夜が26日、東京・芝公園の増上寺光摂殿で営まれた。

 戒名は「教順院椿壽日幸大居士(きょうじゅんいんちんじゅにっこうだいごじ)」。多くの歌舞伎俳優を育成した又五郎さんらしく、参列者は1000人。歌舞伎界からは中村富十郎(79)市川猿之助(69)、松本幸四郎(66)、中村吉右衛門(64)、片岡仁左衛門(64)らが、女優・池上季実子(50)、中村嘉葎雄(70)らも訪れた。ひつぎには愛用のつえ、たばこ、メガネ、ウイスキーが入れられた。7年前に撮影された優しくほほえむ又五郎さんの遺影が参列者の涙を誘った。

 幸四郎は「おやじの年代の最後の歌舞伎役者だった。『木の芽会』という勉強会で色々教わった。お疲れさまと言いました」としんみり。吉右衛門も「9月の『秀山祭』に出て頂きたかった」と悲しみをこらえていた。

訃報・おくやみ

(2009年2月27日06時00分 スポーツ報知)

中村勘太郎、「杉村春子賞」を受賞

中村勘太郎、「杉村春子賞」を受賞

 歌舞伎俳優・中村勘太郎が26日、都内で行われた「第16回読売演劇大賞」の授賞式に出席した。平成中村座の公演「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平など8役の演技が評価され「杉村春子賞」を受賞し、「(公演中)ひと月のことは記憶にない。一心不乱、無我夢中でした。これからもっと精進と努力をしなければ」とあいさつ。

中村又五郎さん通夜に“歌舞伎界の重鎮”弔問

中村又五郎さん通夜に“歌舞伎界の重鎮”弔問

Photo By スポニチ
 21日に老衰のため94歳で死去した人間国宝の歌舞伎俳優・中村又五郎(なかむら・またごろう、本名・中村幸雄=なかむら・ゆきお)さんの通夜が26日、東京都港区の増上寺光摂殿で営まれた。又五郎さんの死去で最高齢となった中村雀右衛門(88)や中村富十郎(79)市川猿之助(69)ら重鎮が弔問。先代の弟子だった又五郎さんをおじのように慕っていた中村吉右衛門(64)は「素晴らしい芸をあの世へ持っていってしまった。もっと教えていただきたかった」と残念がった。戒名は、教順院椿壽日幸大居士(きょうじゅんいんちんじゅにっこうだいごじ)。葬儀・告別式は27日午前11時半から同所で営まれる。

[ 2009年02月27日 ]

愛之助「舞にも命」

愛之助「舞にも命」

楳茂都流 家元に
 歌舞伎俳優の片岡愛之助が、上方舞「楳茂都(うめもと)流」の四代目家元、楳茂都扇性(せんしょう)を襲名し、3月1日、大阪松竹座で家元披露舞踊公演を行う。愛之助は「両立は大変だが、歌舞伎同様に舞も命を張って精進したい」と意気込んでいる。

 楳茂都流は初代扇性が江戸時代末期に大阪で創設。歌舞伎などの振り付けを行う一方、二代目扇性は坪内逍遥が提唱した新舞踊劇に取り組み、宝塚音楽歌劇学校の教師を務めた三代目家元の陸平(りくへい)は、海外公演も積極的に行った。

 1985年に陸平が亡くなった後、高弟らが運営してきたが、上方歌舞伎界のホープで、舞踊の実力もある愛之助を新しい家元に推す声が強く、一昨年、正式に就任を依頼。愛之助も快諾し、昨年12月に家元を継承した。

 長く花柳(はなやぎ)流に学び、「これまで(楳茂都流とは)ご縁がなかったので、お話をいただいたときは本当に驚いた」と愛之助。「祖父の十三代目(片岡)仁左衛門と陸平先生は親しく、昔はよく舞台で楳茂都流の舞をかけていたそう。大阪で生まれ育ち、今も生活する上方の歌舞伎役者として、ぜひ、継がせていただくことにした」と話す。

 舞台に忙しく、なかなか稽古(けいこ)の時間をとれないのが悩みだが、先月、高弟の一人、楳茂都梅咲(うめさき)と一緒に集中的に修練した。「ゆったりとした振り付けもあれば、これが舞なのか、と思うような激しいものもある。楽しかった」と笑い、梅咲も「さすが、という身のこなし」と太鼓判を押す。

 公演では、京都の四季を描いた「都十二月(みやこじゅうにつき)」を披露。山村若(山村流)、若柳(わかやぎ)吉蔵(若柳流)ら他の流派の家元らと一緒に「荒れ鼠(ねずみ)」を舞う。出演は、ほかに井上八千代(京舞井上流)、吉村輝章(きしょう)(吉村流)ら。

 愛之助は「まずは流儀を体にしみ付けること。家元として恥ずかしくない舞を勉強し、その上で、リサイタルなどを積極的に開いて普及に努めたい」としている。(電)06・6214・2211。(佐藤浩)

(2009年2月25日 読売新聞)

坂東三津五郎が松尾芸能賞大賞

坂東三津五郎が松尾芸能賞大賞

 芸能の分野で優れた実績を残した人々を表彰する第30回松尾芸能賞(松尾芸能振興財団主催)の大賞に、歌舞伎俳優の坂東三津五郎が選ばれた。昨年の「将軍江戸を去る」(歌舞伎座)など、長年にわたる活躍が評価された。その他の賞は次の通り。

 ▽優秀賞=前田美波里(女優)、松坂慶子(同)、杵屋勝国(邦楽)、竹本千歳大夫(ちとせだゆう)(文楽大夫)、ボニージャックス(歌手)▽新人賞=若柳吉蔵(きちぞう)(日本舞踊)、柚希礼音(ゆずきれおん)(宝塚歌劇団)▽特別賞=淡島千景(女優)▽松尾國三(くにぞう)賞=市川段四郎(歌舞伎俳優)▽松尾波儔江(はずえ)賞=花柳糸之(日本舞踊)

(2009年2月25日 読売新聞)

【産経抄】2月23日

【産経抄】2月23日

2009.2.23 02:26

 作家の池波正太郎は、先週末、94歳の天寿を全うした歌舞伎俳優、中村又五郎さんの芸と人柄を愛してやまなかった。その素顔を初めて見たのは、京都の古書店においてだった、と『又五郎の春秋』に書いている。昭和30年ごろのことだ。

 ▼黒いソフト帽姿で古書をあさる又五郎さんは、「京大の歴史か国文学の教授のような趣(おもむき)」があり、同時に「歌舞伎のベテラン俳優の、いわゆる〔役者の香り〕がにおいたって」もいた。このときの印象が、池波の代表作のひとつ『剣客商売』の主人公、秋山小兵衛(こへえ)に投影されていることは、池波ファンなら誰でも知っている。

 ▼6歳から舞台に立ち、昭和初期を代表する名優、初代中村吉右衛門の薫陶を受けた。「何でもできなくちゃあいけねえ」という師匠の教えで、立ち役から女形、老け役まであらゆる役を演じた。平成11年に受けた菊池寛賞は、円熟した芸に加えて、後進の指導、育成が理由とされた。

 ▼昭和45年に始まった国立劇場の歌舞伎俳優研修で、第1期から主任講師を務めてきた。いまも、80人を超える教え子が現役で活躍中だ。芝居に縁がなかった人たちには、まず和服の着方からたたきこまなければならなかった。

 ▼その熱血指導ぶりを、池波はくわしく取材している。あるとき又五郎さんは、「歌舞伎そのもののほかに、役者としての心構えを教えなければ」と語った。アメリカ公演で泊まったホテルで、一部の研修生が寝間着のままで廊下に出たりする、だらけた振る舞いに我慢がならなかったというのだ。

 ▼何やら先般、ローマで起こった騒動を思いだす。世襲制だけで成り立たないのは、政界も歌舞伎界と同様だ。頼りになる政治家を育て上げる「政界の又五郎」はいないものか。

ひと:片岡愛之助さん 上方舞楳茂都流四代目家元

ひと:片岡愛之助さん 上方舞楳茂都流四代目家元

 「お話をいただいた時は本当に驚きました」。歌舞伎の人気花形。子どものころから日本舞踊の流派、花柳流の踊りはけいこしていたが、上方の舞は経験ゼロ。そこへ突然、上方舞四大流派の一つ、楳茂都(うめもと)流家元に、と要望された。花のある舞台、芸熱心な人柄が見込まれた。

 「でも自分が舞えるのかな、と。松嶋屋(片岡仁左衛門家)一門で話し合った結果、決めました」

 十三代目仁左衛門の下で修業。その次男、片岡秀太郎の養子になり92年、六代目愛之助を襲名。「僕は死ぬまで大阪の役者です」と関西在住を貫く。

 「歌舞伎に精進するのはもちろん、これからは舞にも命をかけていきたい」

 楳茂都流は幕末、大阪で生まれ、三代目家元の陸平が85年に死去以降、家元を置かず理事制で運営。しかし「芯になる人がほしい」と家元を立てることに。三代目楳茂都扇性(せんしょう)を昨年12月に襲名。四代目家元になった。

 「楳茂都流にはゆったりした地唄舞も、激しい曲もあり、舞って楽しい振りがついています。踊りと違う方向へ体が動く振りもありますが、心で芝居をする動きなので面白い」

 歌舞伎にも楳茂都流の演目がある。「機会があれば歌舞伎でも楳茂都流の曲を務めたい」

 家元披露舞踊会は3月1日午後2時、大阪松竹座で。【宮辻政夫】

 【略歴】片岡愛之助(かたおか・あいのすけ)さん 上方舞楳茂都流四代目家元の歌舞伎俳優。大阪府生まれ。81年、片岡千代丸の名で初舞台。端正な顔立ちで、人気上昇中。ドライブが趣味。36歳。

毎日新聞 2009年2月23日 0時06分

市民歌舞伎を30年指導 久留米に愛着 故中村さん 関係者「財産失った」

市民歌舞伎を30年指導 久留米に愛着 故中村さん 関係者「財産失った」
2009年2月22日 01:44 カテゴリー:九州・山口 > 福岡

久留米市民芸能祭の出演者とけいこに臨む中村さん(左)=1997年 21日に94歳で死去した歌舞伎俳優で人間国宝の中村又五郎さん=東京都=は、1979年から久留米市民芸能祭(現・久留米市民大歌舞伎)で演技指導にあたった。関係者は30年に渡り地域で歌舞伎の普及に努めた名優をしのんだ。

 中村さんは上京した芸能祭出演者らの懇願を受け、指導を引き受けた。当時、俳優が地方に出向き、素人に本格歌舞伎を指導するのは異例のこと。多いときは年に3回、久留米を訪れたという。

 第30回の市民芸能祭(2000年)記念誌に中村さんは文章を寄せた。「教える以上は手を抜かず本格的にやってきました」「何か久留米のお役に立てたとすれば、人生において1つのものを残せた。体力が続く限り久留米に通います」

 芸能祭出演者への指導は「分かりやすい」と評判だった。着物のすそをひざ上までめくり、ひざの曲げ方や足運びを見せたことも。熱心な指導が理解を促したという。

 最後に久留米市を訪れた一昨年の懇親会で中村さんはこう述べたという。「芸事はプロと同じにはできないが、きちんとけいこすれば近づくことはできる。何事も一生懸命やることが大事です」

 20年近く指導を受けた喜多村禎勇・喜多村石油相談役は「久留米の財産を失った」。芸能祭実行委の仲真一事務局長は「90歳を過ぎても久留米に足を運び、歌舞伎の魅力を伝えた中村さんのためにも市民大歌舞伎を続けたい」と話した。

=2009/02/22付 西日本新聞朝刊=

歌舞伎最長老94歳、人間国宝・中村又五郎さん死去

歌舞伎最長老94歳、人間国宝・中村又五郎さん死去

 中村又五郎さん 人間国宝の歌舞伎俳優・中村又五郎(なかむら・またごろう、本名・中村幸雄=なかむら・ゆきお)さんが21日午前4時10分、老衰のため東京都内の自宅で亡くなった。94歳。又五郎さんは1921年に初舞台を踏み、名子役として活躍。以後、女形から立ち役、老け役まで長年にわたって幅広い役柄をこなす名脇役として歌舞伎を支えた。最長老の死に、多くの役を教わった中村吉右衛門(64)、中村勘三郎(53)もショックを受け、悲しんだ。

 又五郎さんの死に、歌舞伎界が悲しみに包まれた。大正、昭和、平成と芸の道を究めた名脇役が21日早朝、眠るように息を引き取った。

 7歳から子役として舞台を踏み、初代中村吉右衛門の下で修業。ほかにも名優の6代目尾上菊五郎の薫陶を受け、女形から立ち役まで幅広い役柄をこなした。作家の故・池波正太郎さんがその芸と人柄にほれこみ、「又五郎の春秋」を執筆し、小説「剣客商売」の主人公・秋山小兵衛のモデルにしたほどだった。

 その一方で、国立劇場の歌舞伎俳優養成事業の主任講師として、数多くの歌舞伎俳優を育て上げた。そして、お師匠番として、昭和の名優から学んだ芸を、現代の歌舞伎俳優に“伝承”するなど、橋渡し役として、歌舞伎界の隆盛を陰で支えた。

 吉右衛門は「初代(吉右衛門)の魂を受け継いだ最後の方。あれだけの脇役がいるといないとでは大きな違いがある。主役を立ててくださる方でした。寂しさと不安と頼りなさが残ります。これから先、どうやって若い人を育てていくのだろうと…。優しい方で温かい人柄でした。ご冥福をお祈りしたい」としんみりと思い出に浸った。

 勘三郎にとっても恩人の一人。勘九郎としての初舞台で共演し、04年の勘九郎最後の舞台でも、「今昔桃太郎」で共演を果たした。「(あの舞台は)今、思い出しても涙が出るくらいうれしかった。とてもフレンドリーで、もっと色々な役を教わりたかった。多くの歌舞伎役者を育てた人です。おじさんがいなかったら、今の歌舞伎の幕が開かない、それだけの人」と功績をたたえた。

 20年前に胃がんの手術をした際、3日後にお見舞いに行ったところ、又五郎さんは病院にいなかったという。「点滴をしたまま、国立劇場に教えに行ってたんですよ」と後進の指導にかけた熱い情熱を思い出して涙をぬぐった。

 又五郎さんの最後の舞台出演は06年4月の歌舞伎座「六世中村歌右衛門五年祭追善口上」だった。今年1月2日の「歌舞伎座さよなら公演古式顔寄せ手打ち式」に出席したのが最後となった。

 ◆中村 又五郎(なかむら・またごろう)本名・中村幸雄。1914年7月21日、初代中村又五郎の長男として東京に生まれる。21年1月、市村座で2代目又五郎を名乗り初舞台。61年に東宝に移籍したが、その後、松竹に復帰。70年に開設された国立劇場の歌舞伎俳優研修所の主任講師を30年以上務めた。75年に紫綬褒章、84年に勲四等旭日小綬章、96年、日本芸術院賞、97年に人間国宝に認定され、99年に菊池寛賞を受賞。屋号は播磨屋。

(2009年2月22日06時00分 スポーツ報知)

<幕の内外>芝居の世界を表す外題 イメージ膨らませる効果

<幕の内外>芝居の世界を表す外題 イメージ膨らませる効果

2009年2月21日 東京

 芝居の正式タイトルを「外題(げだい)」と呼びます。丹精込めた商品を包む包装紙のようなもので、中身同様、作者の力が入ります。

 その文字数は五や七の奇数と決まっていますが、外題にはイメージを膨らませるという大切な役目が。幕末から明治の歌舞伎作者・河竹黙阿弥は外題に凝ったことでも知られています。

 たとえば初期の名作「都鳥廓(みやこどりながれの)白浪(しらなみ)」は、女装(遊女の扮装(ふんそう))の大泥棒の話。都鳥とは、ユリカモメのことですが、捨て子伝説でも有名です。

 京都で人買いに誘拐され、隅田川のほとりで息絶えた若君・梅若丸の「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田河原の 露と消えぬと」という歌から、都鳥といえば、隅田川や梅若伝説を暗示します。

 芝居ではこの梅若丸の兄が身分を隠して泥棒になっており、白浪とは泥棒を意味します。廓づとめの遊女に化けている状況が外題で表現され、都鳥に、川や廓を思わせる「ながれ」という響き、白浪と、全体が美しくまとまっています。

 「梅雨小袖昔八丈」通称「髪結新三(かみゆいしんざ)」は、チンピラの新三が大店の娘を誘拐する話。

 その昔、商家の女性が亭主を殺害しようとした実在の事件があり、「恋娘昔八丈」という浄瑠璃でも有名に。それを黙阿弥は明治期に、別の話に作り替えました。女性の名も城木屋(しろきや)お駒から白子屋(しろこや)お熊になっていますが、このお駒のトレードマークが黄八丈という着物。

 「梅雨小袖~」の外題は、城木屋お駒の世界を暗示しているので、新三に誘拐されるお熊も、もちろん黄八丈姿。初夏から梅雨にかけての季節感がうまく表現され、江戸のロマンを感じさせる洒落(しゃれ)た外題です。 (イラストレーター・辻和子)

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<歌舞伎>松本幸四郎 3月大歌舞伎『元禄忠臣蔵』6編 内蔵助の『決断』 人間像浮き彫り

<歌舞伎>松本幸四郎 3月大歌舞伎『元禄忠臣蔵』6編 内蔵助の『決断』 人間像浮き彫り

2009年2月21日 東京

 東京・歌舞伎座の「さよなら公演・三月大歌舞伎」(2-26日)は、真山青果の大作新歌舞伎「元禄忠臣蔵」全十編のうち、主要な六編を昼夜通しで上演する。主人公・大石内蔵助役で定評のある松本幸四郎が「最後の大評定」(昼)と大詰の「大石最後の一日」(夜)に出演。主君の敵討ちに向けた悲壮な決意やその“初一念”を貫いた喜びなど、人間内蔵助の複雑な内面心理をどのように表現するのか。 (剱和彦)

 赤穂浪士の復讐(ふくしゅう)事件を扱った「元禄忠臣蔵」は、江戸時代の「仮名手本忠臣蔵」と並び称される昭和歌舞伎の傑作とされる。青果が史実考証に基づいて綿密に書き上げた浪士たちの歴史ドラマで、フィクションや脇の話などをないまぜにした、いわゆる歌舞伎的な「仮名手本~」とは別種の味わいがある。

 歌舞伎座では昭和六十二年以来の六編昼夜通しだが、国立劇場では平成十八年十-十二月に幸四郎や坂田藤十郎、中村吉右衛門らで十編通し上演している。今回はほかに昼の部で「江戸城の刃傷」「御浜御殿綱豊卿」、夜の部「南部坂雪の別れ」「仙石屋敷」。

 幸四郎はこれまで「大石最後~」をはじめ、主要演目に何度も出演。「戦前、二世市川左団次が演じた後を父・松本白鸚が継ぎ、今日に至っています。父からは手取り足取り教えてはもらってません。勉強してある程度できるようになってから、けいこを付けてもらいました」と話す。

 青果の忠臣蔵について「イデオロギー劇のように受け止められがちですが、人間の弱さや温かさ、武士の心などを描いたもので、内蔵助は上司として部下の人生を花咲かせてあげた人といえるのでは」。

 「最後の大評定」は、切腹した主君・浅野内匠頭のため、内蔵助が赤穂城で城明け渡しか籠城(ろうじょう)討ち死にかを家臣と評定する場。一方、大石家を訪ねた浪人の旧友・井関徳兵衛(中村歌六)に討ち入り決意の胸の内を明かすエピソードが織り込まれている。

 「二人のやりとりによって内蔵助の心や苦悩も深く出てくる。人生に重大な出来事が降り掛かったとき、どう受け止め決断するかが大切。そこを描いたのが『大評定』で、『元禄』に副題を付けるとすれば、『決断』ではないか」

 「大石最後~」は、「御浜御殿~」とともに単独で再三上演されている人気演目。討ち入りの後、細川家に預けられた浪士たちに切腹の処分が言い渡される。切腹の日の内蔵助らの心境を描いた場だが、ここに浪士の一人、磯貝十郎左衛門(市川染五郎)と、許婚(いいなずけ)のおみの(中村福助)の悲恋が書き加えられている。「(廓遊びする)『撞木町(しゅもくまち)』が割愛されていても、その場を引きずって内蔵助の大きさ、温かさが出るように演じないと」と幸四郎。色恋にヤボでない内蔵助の懐の深さも見どころ。

 「内蔵助は一種の胆力がないとできませんね。『仮名手本』の由良之助は古典なので型で見せますが、『元禄』は型だけでは演じきれず、それにプラスされる何かがある。お客さまに新しい発見、感動を与えることができれば」

 1万8千-2千5百円。(電)03・5565・6000。

引祝:黒髪にお別れ、新たな人生の一歩 宮川町の舞妓・里なみさん、最後の舞 /京都

引祝:黒髪にお別れ、新たな人生の一歩 宮川町の舞妓・里なみさん、最後の舞 /京都

 京都五花街の一つ、宮川町(東山区)のお茶屋「川久」で先月30日、1人の舞妓(まいこ)が花街からの卒業式にあたる「引祝(ひきいわい)」をした。ごひいき筋らが見守る中、約5年半過ごした思い出の場所で最後の舞を披露。慣れ親しんだ黒髪にはさみを入れてもらい、普通の21歳の女性に戻って新しい人生の一歩を踏み出した。

 03年7月にデビューにあたる「お店出し」をした里なみさん。引退前に結う「先〓(さっこう)」と呼ばれる独特の髪形に、えとのうさぎが入った黒紋付き姿で臨んだ。引祝はあいさつだけのお茶屋もあるが、川久では、“おかあさん”らの計らいで盛大な雰囲気に。約2カ月違いの後輩・里あいさんと里なみさんが祝舞を踊り、約2年前にお店出しした里乃さんと里美さんも加わり、お茶屋の舞妓全員で「祇園小唄」と京おどりのフィナーレ「宮川音頭」で締めた。

 張りつめた雰囲気はここまで。祝い酒や京料理「京とみ」(同区)から振る舞われたタイなどが並べられた。歌舞伎役者の片岡秀太郎さんが用意した手ぬぐいを肩からかけると、来客者が声をかけてかんざしなどを外し、髪の結び目を少しずつほどいていく。久しぶりに会う人から「おめでとうさん」と言われ、里なみさんも笑顔に。最後の止めばさみを実兄が入れると「おおきに」と頭を下げた。

 里なみさんは「辞めたいと思ったこともあったが、やり遂げられたのは姉さんたちやお茶屋に恵まれたからだと思います」と振り返った。【小川信、写真・武井澄人】

 2月19日 毎日

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<ぶんか探訪>文楽の神髄、ここでつかむ──豊松清十郎さんと行く高津宮

<ぶんか探訪>文楽の神髄、ここでつかむ──豊松清十郎さんと行く高津宮

2009/02/19配信 日経大阪

「高津宮は文楽を教えてくれた場所」と話す豊松清十郎さん(大阪市中央区)

仁徳天皇の故事に由来する大阪市中央区の高津宮(こうづぐう)は、落語や文楽の作品の舞台としても知られる。35年前、東京から大阪へ移り住んだ文楽人形遣いの豊松清十郎さんにとっては、修業時代に親しんだ場所。境内を巡り、話を聞いた。

 高津宮があるのは上町台地に連なる高台の上。千日前通から北へ1本入り、石段の表参道を上る。真冬でも緑が茂る木々はクスノキ。サクラの名所でもあるが、寒空の下、人影は皆無だ。清十郎さんは「行事の時以外はとても静かですよ」と言う。

 境内は広くないものの、見どころが多い。「相合坂」は横から見ると二等辺三角形。両側から男女が上り、頂点で出会えれば相性良し。隣の「西坂」はかつて踊り場を3つ持ち、上から見ると三くだり半の形状だったため「縁切り坂」と呼ばれ、悪縁を切る場とされた。

 落語「高津の富」「崇徳院」などの舞台にもなった。本殿脇に、昭和の上方落語を支えた落語家、桂文枝の石碑が立つ。絵馬堂には現坂田藤十郎の襲名記念の絵馬も。落語や文楽のイベントもよく開かれる。「上方文化と関係が深い神社です」と清十郎さん。

 仁徳天皇が集落から上る炊煙の乏しさを知り、租税を免除したとの逸話が記紀にある。平安期、故事の舞台として仁徳天皇をまつった社殿が高津宮の前身だ。故事にちなみ高台の上に立ち、本来眺望はよいはずだが、今や市街地のど真ん中。展望台のような絵馬堂からも、周りのマンションやビルの壁で見晴らしは遮られる。「昔はミナミの街が一望できましたが」。清十郎さんは残念そうだ。

   かつて市内を一望できた絵馬堂

 清十郎さんは東京出身。文楽好きの親の影響で4世豊松清十郎にあこがれ、中学1年で入門。「人形遣いになると心に決めてました」。卒業後すぐ単身大阪に出てきた。

 だが新大阪駅のホームに降り立った瞬間から、圧倒されっぱなしだったと振り返る。「あほちゃうんか」「なんぼやねん」。大阪弁に戸惑った。それに人々の熱気、人と人の距離の近さ、人そのものの濃さ。楽屋で東京弁をからかわれ、1人暮らしのアパートに帰る毎日。「ご飯食べたんか。東京帰りたいんやろ」。隣のおばはんがやたら世話を焼く。

 そんなころ、夏祭り真っ盛りの高津宮を訪れた。大阪の夏の風物詩。文楽の演目「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」の舞台とは知っていた。侠客(きょうかく)の団七が強欲な舅(しゅうと)を殺す筋立て。夏祭りのだんじり囃子(ばやし)の中、ねちねち嫌みばかりの舅にぶちぎれ、団七は舅に切り付ける。泥中をはいずり回る舅に団七はとどめを刺す。陰惨な殺しの美学。しかし何も殺さなくても、と少年だった清十郎さんは不思議で仕方なかった。

 実際に高津宮の夏祭りの中に身を置いた。やかましいほどのだんじり囃子。人々の狂乱、やかましさ。頭に血が上り、意識が遠のくような感覚を覚えたという。「ああこれなんだ、と思いました。一本筋が通った瞬間というか。団七が舅を殺した理由が奇妙なほど肌で理解できたんです」

 それ以降、人形遣いとして黙々と研さんを積む日々だった。「高津宮は自分にとって文楽を教えてくれた場所です」。1984年、師匠が亡くなった時も、1人で高津宮を訪れた。「大阪で生きていくんだ、ここが自分の場所なんだ、と腹が決まったのはこのころです」。そして昨年、師匠の名を継いだ。

 「このところ襲名で忙しかったんですが、今日は懐かしいあのころをゆっくり振り返ることができました」。絵馬堂で遠い視線の清十郎さんが言う。そのまなざしの先に映るのはかつて見たミナミの街並みか、あるいは懐かしい修業の日々だったのだろうか。
(大阪・文化担当 田村広済)

 とよまつ・せいじゅうろう 文楽人形遣い。1958年、東京生まれ。71年、4世豊松清十郎に入門し、豊松清之助を名乗る。74年に初舞台。86年、吉田簑助門下となり、吉田清之助を名乗る。2008年、5世豊松清十郎を襲名。女形や二枚目を中心とした端正な立役に定評がある。

歌舞伎:二月大歌舞伎(歌舞伎座) 吉右衛門の弁慶に気概と大きさ

歌舞伎:二月大歌舞伎(歌舞伎座) 吉右衛門の弁慶に気概と大きさ

 「さよなら公演」の2カ月目。昼夜におなじみの演目が並ぶ。

 昼の最初が「菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)、加茂堤・賀の祝」。「加茂堤」で桜丸(橋之助)と八重(福助)の夫婦のむつまじさが示されることで、続く「賀の祝」での別れの悲劇が浮かび上がる。橋之助の出に哀れさが表現された。福助は情味が豊か。左団次の白太夫は桜丸を思う気持ちが感じられた。染五郎の松王丸、松緑の梅王丸、芝雀の千代、扇雀の春。

 中幕が「娘二人道成寺」。玉三郎と菊之助の2人の花子の息が合い、あでやかな美の世界が広がった。

 最後が「文七元結(もっとい)」。菊五郎が長兵衛の気持ちの変化にメリハリを利かせた。時蔵のお兼が優しさの感じられるいい世話女房ぶり。芝翫の角海老女房、三津五郎の和泉屋、吉右衛門の鳶頭(とびがしら)、菊之助の文七、左団次の家主と顔がそろった。

 夜は「蘭平物狂(ものぐるい)」から。三津五郎の蘭平は物狂い、立ち回りと動きがきっぱりと決まる。宜生の繁蔵がしっかりしている。翫雀、橋之助、福助が周囲を固める。

 続いて「勧進帳」。吉右衛門の弁慶に、身を賭して義経(梅玉)を守ろうとする気概が出た。四天王(段四郎、染五郎、松緑、菊之助)を押しとどめるくだりなど圧倒的な大きさ。菊五郎の富樫が鋭く、梅玉に落ち行く者の悲しみがある。

 最後が「三人吉三・大川端」。玉三郎のお嬢が倒錯的な美を見せる。染五郎のお坊、松緑の和尚。25日まで。【小玉祥子】

毎日新聞 2009年2月18日 東京夕刊

第16回読売演劇大賞受賞者インタビュー(下)

第16回読売演劇大賞受賞者インタビュー(下)

 26日に贈賞式が行われる第16回読売演劇大賞。4日に続き、受賞者の喜びの声を紹介する。

 略・・・・・

「特別な作品」で8役演じる 杉村春子賞 中村 勘太郎
「仮名手本忠臣蔵」の演技

 焦点を当てる人物によって、全11段ある「忠臣蔵」を4プログラムに分け、日替わりで上演した「平成中村座」公演。各プログラムで2役、計8役を演じた奮闘ぶりが、飛躍を期待される若手への賞に結びついた。早野勘平など8役のうち、実に7役が初挑戦だった。

 「父(中村勘三郎)から『お前、大変だよ』と言われましたが、精神的にもきつくて、ぎりぎりの極限状態でした」と振り返る。

 「特別な作品」と言うほど「忠臣蔵」への思い入れは深い。

 「一つの役にもいろんな型があり、様々な工夫が入っているということは、それぞれの役者がその役を愛し、解釈を加えて作って来たということ。その工夫が本当に凝縮されている」

 先人たちが磨き抜いた型を、父だけでなく、坂東三津五郎、中村橋之助ら尊敬する先輩たちから手取り足取り教わった。

 「役をつかみきれなかったのは悔しいけれど、すごく財産が増えました。また、やりたい役ばっかり。終わりのない旅ですね」

 斬新な試みで歌舞伎界をリードする父が企画した公演だからこそ、8役を演じる機会に恵まれた。その責任も十分に自覚している。

 「おろそかにやっていたら、ほかの方に失礼。幸せにあぐらをかかず、女形も含めて一つ一つしっかりやっていきたい」

 27歳と思えぬ落ち着きと、若者らしいさわやかさが同居する。これからの歌舞伎界を引っ張る大器であることは疑いない。

(2009年2月18日 読売新聞)

文楽:近松作品と「襤褸錦」(国立小劇場) 勘十郎の与兵衛が秀逸

文楽:近松作品と「襤褸錦」(国立小劇場) 勘十郎の与兵衛が秀逸

 1部は近松の「鑓(やり)の権三重(ごんざかさね)帷子(かたびら)」で、思いがけぬ成り行きで姦通(かんつう)の汚名を着せられた武家の男女の悲劇を描いた作。松香・清友、津駒・寛治が事件の推移を的確に語り、人形の文雀が感情の起伏の激しいおさゐの人柄を、和生が武道の通用しなくなった時代に生まれた権三の虚(むな)しさを描いた。「忠太兵衛屋敷」の英・団七が残された家族のつらさを語り出した。

 2部は「敵討(かたきうち)襤褸(つづれの)錦(にしき)」。「出立」は敵討ちのため愚かな長男助太郎を犠牲にする母の悲哀を嶋・富助がしっとりと語り、和生が母、簑助が助太郎を遣って舞台を盛り上げた。「大安寺堤」は住・錦糸で、わら小屋に潜んで病苦に耐えながら敵討ちに執念を燃やす次郎右衛門の姿を描き出し、ひときわ優れる。人形は玉女の次郎右衛門が立派で、勘十郎の武右衛門、玉也の宇田右衛門、清十郎の新七と周りもそろう。

 3部は近松の「女殺油地獄」で、欲望のまま刹那(せつな)的に行動する青年与兵衛が主人公。そんな子を持った家族の悲惨さを描いた「河内屋」を呂勢・清治、親たちの情愛となまじ親切にしたため与兵衛に殺されるお吉の悲劇を描いた「油店」を咲・燕三が面白く語る。人形は勘十郎の与兵衛が秀逸。玉也、玉英の親夫婦も良い。お吉は紋寿。22日まで。(水落潔)

毎日新聞 2009年2月16日 東京夕刊

【プレミアムシート】歌舞伎役者・片岡愛之助「僕は上方の役者」

【プレミアムシート】歌舞伎役者・片岡愛之助「僕は上方の役者」

2009.2.15 18:00 産経

 片岡愛之助(歌舞伎俳優) 指に鮮やかな紅をつけ、眉から額の生え際に向かって力強く一気に引く。見る間に顔の筋肉と血管が浮き上がってくるようだ。

 鏡に向かって集中すること30分。さっきまでの甘くやさしい素顔から、勇壮で男らしい荒事の役どころ、平井保昌の顔になった。

 「化粧していると、だんだんその人になっていく」

 今月の大阪松竹座「二月花形歌舞伎」は愛之助をはじめ、中村獅童、市川亀治郎ら次代を担う花形が勢揃い。連日若いファンが押し寄せて活況を呈している。

 「大阪の役者としてうれしい」と心底ホッとした表情。「いま世間は大不況。歌舞伎のチケットは一等席が1万円以上する。果たしてお客さまが来てくださるのか、正直怖かったんです」

 江戸の荒事もいいが、やはり本領は上方歌舞伎。「夏祭浪花鑑」の団七を毛穴の一つ一つから大坂のにおいが吹き出すように演じ、「封印切」の忠兵衛でははんなりした上方の色男の風情をにじませた。

 主要メンバー7人のうち、生粋の上方役者はただ一人。「松嶋屋!」-。愛之助にかかる声は、上方歌舞伎への期待の声でもある。

× × ×

 上方歌舞伎の厳しい時代を経験している。

 10年ぐらい前までは関西での歌舞伎公演はまだまだ少なく、東京の同世代に比べて役がつかないつらさがあった。

 「ですからまずは関西の人にもっと歌舞伎を知ってもらいたい」と熱く語る。

 松竹座の終演後、楽屋口から出るとファンの女性に声をかけられた。「今日初めて歌舞伎の愛之助さんを見ました」と。「ええ?じゃあ何で僕を知ったの?って聞いたら『トークショーです』って。ですから現代劇や映画などにもどんどん挑戦したい」

 いま、もっとも多忙な歌舞伎役者のひとり。「6年間、きちんとした休みがないんです」と苦笑する。昼は歌舞伎の舞台、夜は明け方まで映画撮影という強行日程が続いた月もあった。

 「休みがないのはありがたいですよ。人生一度ですから、僕に、と言ってくれる仕事があるなら貪欲(どんよく)にやり続けたい」

 今年はもう一つ、大きな仕事がある。上方舞楳茂都流の四代目家元・楳茂都扇性の襲名披露公演が3月1日に控えている。

<幕の内外>犯罪シーンの多さ 普通の人もぶちギレる

<幕の内外>犯罪シーンの多さ 普通の人もぶちギレる

2009年2月14日 東京

 世界一犯罪発生率が高い舞台、それが歌舞伎でしょう。

 ゆすり、たかりはもちろん、強盗、殺人、暴行、詐欺にセクハラ、パワハラ、未成年相手の不純異性交遊から、犯罪ではありませんが、心中や不倫、略奪愛まで、問題行動のオンパレード。まったく犯罪が起こらず、人も死なない演目は、舞踊や松羽目物を除けば、数えるほどしかありません。

 罪状のバラエティーさもさることながら、犯罪を起こすキャラも実にさまざま。町のチンピラから巨悪の政治家はもちろん、「なぜこの人が」という一般市民も、芝居では油断できません。

 普通の人が最も注意したいのが「ぶちギレ」。これはしばしば大量殺人につながります。

 いうなれば「心理的抑圧によって引き起こされる突発的暴力衝動」で、一種の心神喪失状態。性格は実直でまじめなのが特徴で、キレる原因は、たいてい女性関係のこじれ。「伊勢音頭恋(いせおんどこいの)寝刃(ねたば)」や「籠釣瓶(かごつるべ)花街(さとの)酔醒(えいざめ)」「名月八幡祭」などもその一種です。

 前述のふたつは、江戸時代に実際に遊廓で起こった大量殺人事件をもとにつくられました。両方とも、主人公が遊女に愛想づかしをされて逆上するというパターン。「伊勢音頭」はイケメン、「籠釣瓶」はあばた顔の醜男というキャラの違いはありますが、どちらも「妖刀」がからんだせいで、事件が起きるとした点が興味深い。

 逆に言えば、それだけ犯罪と縁遠そうなキャラというわけで、心理学が発達していなかった昔は、「責任能力の欠如」、つまりうって変わった狂気の理由を、妖刀に求めたのかもしれません。

 (イラストレーター・辻和子)

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<評>歌舞伎座『2月大歌舞伎』 大きさと人間味の吉右衛門・弁慶

<評>歌舞伎座『2月大歌舞伎』 大きさと人間味の吉右衛門・弁慶

2009年2月14日 東京

 昼は「菅原伝授手習鑑(かがみ)」の「加茂堤」「賀の祝」から。菅丞相流罪の責任を取って自害する桜丸の悲劇を描くが、橋之助の桜丸、福助の八重、左団次の父白太夫三人にやや哀れさが不足、それぞれ柄が立派すぎるのだろう。「京鹿子娘二人道成寺」は目線、指先までぴたりと息の合う玉三郎、菊之助。玉三郎は、菊之助の花子の心の形象のよう。「ふっつり悋気(りんき)」など独特な雰囲気が漂った。年越しを描いて季節感は外れるが、「人情噺(ばなし)文七元結(もっとい)」で菊五郎が生き生きと江戸っ子ぶりを見せる。女房お兼に時蔵、文七に菊之助。鳶頭(とびがしら)に吉右衛門が出演、豪華な幕切れになった。

 夜は三津五郎演じる家の芸「蘭平物狂」から。前半の奇病による狂いも見せ場ながら、後半の大立ち回りが迫力。「勧進帳」はスケールの大きさと人間味で群を抜く吉右衛門の弁慶で、近年の傑作。まさに完成品だが、富樫との詰め合いで見せる表情は父譲りとはいえ、それまでの沈着さと矛盾しないだろうか。品のある梅玉の義経だが、「判官御手」は動きをくっきりしたい。富樫は風情の菊五郎。勧進帳を読む弁慶をうかがう距離感が抜群の的確さ。染五郎のお坊吉三、松緑の和尚吉三、わざと不良ぶりを見せる玉三郎のお嬢吉三で「三人吉三巴白浪」。見慣れた菊五郎系の雰囲気と異なって興味深い。25日まで。(近藤瑞男=共立女子大学教授・演劇評論家)

<歌舞伎>中村勘三郎 『こんぴら歌舞伎』25回目記念公演で座頭 地元の温かさにこたえる舞台を

<歌舞伎>中村勘三郎 『こんぴら歌舞伎』25回目記念公演で座頭 地元の温かさにこたえる舞台を
2009年2月14日 東京

 四国路の春を告げる「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が、4月7日から香川県琴平町の金丸座で幕を開ける。昭和60年の初演以来、25回目の記念公演とあって、当代人気歌舞伎俳優・中村勘三郎が座頭で出演。先代からの当たり役「俊寛」や「沼津」「身替座禅」などを上演する。「温かく迎えてくれる地元の人たちと再会できるのが楽しみ。ゆかりの演目を一生懸命勤めます」と勘三郎。 (増渕安孝)

 「初演の際、『ここで歌舞伎をやろう』と声を掛けてくださった勘三郎さんがご出演していただけることは、琴平町にとっても感激の極み。演目も勘三郎さんの格別の思い、心意気を十分に感じ取れるものばかり」と、山下正臣町長は手放しの喜びよう。

 勘三郎は三年前に襲名巡業で、金丸座を三日間訪れているが、同公演には第九回以来十六年ぶりの出演。

 こんぴら歌舞伎にはいろいろな思い出があるという勘三郎。「ここで歌舞伎をやりたい」と、今は亡き永山武臣松竹会長の自宅を訪れたこと。第九回に上演した「夏祭浪花鑑」が、演出家・串田和美さんの目に留まり、それがコクーン歌舞伎へとつながったこと。平成中村座(東京・浅草)は「その金丸座公演が移動したら」という発想から実現した。

 父との思い出も格別だ。「第三回のこんぴら歌舞伎に出演した父は『沼津』を勤めました。舞台を終えた父から『こんなに良い芝居小屋はありません、来年もまた出ますよ』とうれしい電話をもらい、翌年『俊寛』を勤めるのを楽しみにしていましたが、体調を崩してしまい、残念ながらその思いがかなうことはありませんでした」と振り返る。

 襲名巡業で訪れた際には、琴平町の人たちが「勘三郎さん、お帰りなさい!」という、手作りの垂れ幕を掲げて迎えた。「私と一緒に父も迎えてもらったようで、そのときの感動は忘れられません。おいしいうどん屋の方、旅館の方、そのほか昔から温かく迎えてくれる方たちとの再会もいまから楽しみ」

 今回は、勘三郎になって初めてのこんぴら歌舞伎だけに「ここの公演はひと言でいうと温かさ、舞台とお客さまとの近さだと思う。『俊寛』では客席に波幕や小さい舟も登場させるなど、この芝居小屋ならではの演出を考えてみたい」と、思い入れもひとしお。

 一部は「俊寛」、初上演の「恋飛脚大和往来 新口村」「身替座禅」、二部が「伊賀越道中双六 沼津」「闇梅百物語」。出演はほかに中村扇雀、坂東弥十郎、片岡亀蔵、中村勘太郎・七之助ら。

 25日まで。1万3千-7千円。(電)0877・75・6714(四国こんぴら歌舞伎大芝居事務局)。

<評>「鑓の権三重帷子」 哀れな女を表出

<評>「鑓の権三重帷子」 哀れな女を表出

2009年2月14日 東京

 三部構成で、一部の「鑓(やり)の権三重(ごんざかさねの)帷子(かたびら)」は「堀川波の鼓」「大経師昔暦」とともに近松門左衛門の三大不義物の一つだが、復活は新しく昭和三十年。茶道師南・浅香市之進の留守中に妻のおさゐが娘の婚約者・笹野権三と密通したことにされてしまう悲劇を描く。留守宅と数寄屋の段がその場面で、最近進況著しい津駒が寛治、清二郎の糸で語り、夫を愛しながら殺される哀れな女を表出。人形は文雀。

 二部の「敵討(かたきうち)襤褸錦(つづれのにしき)」は、隣り合う春藤家と須藤家が敵(かたき)同士になるという皮肉な設定。敵の六郎右衛門を討つために旅立つ春藤家の内情を描いたのが出立の段で床は嶋と富助。

 その内情がまた複雑で、長男は生来の愚鈍さ故に廃嫡、家は次男が継いでいて、三男は須藤家の娘と婚約中。しかも長男の助太郎は愚鈍さにつけこまれ、父惨殺に利用されている。にもかかわらず妾腹の次男、三男は兄を丁重に扱い、敵討ちに同道するという。思い余った母は自ら息子を殺し、父の冥土(めいど)の供をさせるといい放つ。嶋大夫がこうした事情をていねいに語ってさすが。助太郎を遣う簑助が絶妙。

 三部は放蕩(ほうとう)息子の行き着く先という現代にも通じるテーマの「女殺油地獄」で、河内屋から油店の段を呂勢・清治、咲・燕三で語り継ぎ、親の情が色濃く出た。勘十郎が遣う与兵衛のふて腐れぶりが楽しい。今回活躍が目立ったのは代演を含め津駒と咲甫。22日まで。国立小劇場。(津田類=演劇評論家)

長門ふるさと大使:市川笑三郎さんを任命 /山口

長門ふるさと大使:市川笑三郎さんを任命 /山口

 長門市は市をPRする「長門ふるさと大使」に歌舞伎俳優の市川笑三郎さん(38)を任命し、このほど、委嘱状を交付した。任期は2年間。

 昨年11月、ルネッサながとで開かれた第2回県総合芸術文化祭での創作舞台「長門鯨回向外伝」で、市川さんが脚本・演出を担当したのが縁。

 市は江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎作者、近松門左衛門の出生地とされる歌舞伎ゆかりの地。市川さんは「長門はふるさとのよう」と話している。【阿部義正】

毎日新聞 2009年2月13日 地方版

猿之助も祝福!市川弘太郎が年上司法書士と結婚

猿之助も祝福!市川弘太郎が年上司法書士と結婚

師匠・猿之助のパネルの前で、入籍を発表した市川弘太郎(中央)を囲む(左から)市川笑也、市川右近、市川猿弥、市川笑三郎、市川春猿

Photo By スポニチ

 歌舞伎俳優の市川猿之助(69)一門によるトークショー「猿遊会」が11日、都内で行われ、市川弘太郎(25)が結婚を発表した。約100人の前で「本日入籍いたしました」と、出演前に都内の区役所に婚姻届を提出したことを報告。相手は大学時代に知り合った都内の司法書士、西原美樹さん(28)。挙式・披露宴は4月29日に東京・丸の内の東京会舘で執り行う。「家庭を持ったので、一層精進していきたい」と気を引き締めた。

 猿之助には1月下旬に紹介。「2人で頑張りなさい」と激励されたという。3月の東京・新橋演舞場公演「獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)」のPRの場が、有望な若手の結婚会見になってしまった。

扇雀 シネマ歌舞伎で世界制覇だ

扇雀 シネマ歌舞伎で世界制覇だ

 歌舞伎俳優・中村扇雀(48)が11日、東京・銀座のソニービルで「シネマ歌舞伎」のトークショーを行った。

 シネマ歌舞伎とは歌舞伎の舞台を高性能デジタルシネマカメラで撮影した映像作品で扇雀は「野田版 鼠小僧」、「野田版 研辰の討たれ」、「人情噺文七元結」に出演。「実物より実物らしい。筋一本まで見えてしまう。年が取れないな」と苦笑い。それでもシネマ歌舞伎をきっかけに夢は大きい。「世界制覇。インターネットで配信すれば反響がある。(外国の)芝居を見ても『悔しい、負けた』という作品はない。日本代表として持って行っても恥ずかしくない」と力説した。

(2009年2月11日18時53分 スポーツ報知)

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われ日本の伝統芸能を愛す。そのため記事をここに書きとめ候。参考にされるならば、またうれし。ともに伝統芸能にはまろうではないか。
なんちゃってね。
あれ、どこで読んだんだっけなと探すことが多いので、ここにたんたんと書き留めることにしました。最新あり、遅いのもあり。鷹揚のご見物を♪


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